2011年4月9日土曜日

Review by MIYATA Tetsuya - 2011-02-11 Friday Night Session

この日の公演は聴覚×聴覚と聴覚×視覚の構成であったが、五感を転覆させる内容となった。
「à qui avec Gabriel(アコーディオン)×吉本裕美子(ギター)」のデュオは、視覚を擽る。無調、無拍子の二人が生み出す音は見事なまでに融合し、情景を想起させる。徐々に形成されるリズムと音階は、霧の中に映像が浮かび上がってくるようだ。それは個人の思い出や記憶であると同時に、人が皆持つ憧憬であると言い換えることができる。そのスクリーンは単独ではなく複数に展開し、ここに居る者の現在過去未来という時間概念を揺さぶっていく。しかしその後の展開はこの夢のような時間軸に現実を叩き付けるような、自己が覚醒した領域を提示するのだ。吉本が編み出す音は空に流れる雲が緩やかに流れる川に映る様に上下が逆転する。à quiが捻り出すそれは、足元の小石が地平線の遥か彼方に広がる砂漠の果てにある土塊と同一するのではないかといった錯覚に満ちている。二人の空間に、居る者は25分間包み込まれていった。

「りょう(17絃箏)×秦真紀子(ダンス)」は、聴覚というよりも小説を読んでいるような物語性、即ちイメージを掻き立てた。りょうの呼吸するような単音に対して、背を向ける秦が解かれていく。秦は闇と化した音を掻い潜る。りょうの音に旋律は生まれない。彫刻のような質感=マッスが聳え立つ。持続するりょうに対して秦は底辺を流れていく。りょうが絃を擦ると秦は反応し、立ち上がる。りょうは休符ではなく沈黙を生み出していく。秦は背を反り、顔を後方へ向け時間を創り上げていく。りょうの弛んだ絃のバイブレーションに対して秦はリズミックに体を揺する。りょうのスティックによる絃の擦りとアタックが、秦の体の芯に振動として揺れ動く。りょうが絃を弓で奏でると秦はその雰囲気を体躯に導く。30分間の公演は、一つの曲というよりも一冊の本を捲ったと言った方が相応しい。

四人による25分のセッションのみどころは、影のような秦にあった。吉本が断片を、りょうが音=質量を形成し、ノイジーな展開が繰り広げられる。à quiは鍋やアコーディオンを叩いて、その喧騒に煽りを加える。三者の音は速度を増すのではなく細分化していく。その間、秦はまるでその音に遮られた空間を密かに舞うのであった。

宮田徹也(日本近代美術思想史研究)